【エッセイ】人間が文章を書く意味ってなんだろうか。

哲学

どうも、編集部です。拙いながらエッセイを書きました。よかったら読んでみてください。もしかしたらAIが書いた文章と全く見分けがつかないかもしれません。けれども、これは正真正銘、私が書いた文章です。(そのようなものを証明する何かがあればいいのにと思う今日この頃。)それだけは保証できます。

~以下文章~

今日は一味変わってエッセイを書こうと思う。AIが多種多様な文章を書きあげてしまう最近においては、人間が文章を書くことに意味が問われているように感じる。こうして文章を書くということは、はるかに時間がかかり、はるかに面倒で、はるかに効率が悪いからだ。効率が大事な現代社会においては、人間の手で書くということは、淘汰されていくに違いない。それでも私は人間の手で文章を書くということにどうしても価値を見出したいと感じる。どこからその思いが沸き上がるのかはわからない。私のこの文章でさえ、きっと私の経験や知識というAIがアクセスできる情報と比べればはるかに少ない情報から構成される文章である。しかし、そこに意味が宿ると信じたい。今回はその根拠を探るエッセイにする。興味がわかなかった読者は別にこの先に進まなくてもよい。

これはあくまで私が、私のために書く文章であるから。そして、別に私の文章が真理だとは一切思わないし、偉そうなこと書いているなくらいでいい。けれども、AI時代に人間の書く文章。これがそもそも価値を持つような気もするので、本来はブログやネットで他人にさらすべき内容ではないような私の思考、特段何物でもない私の思考を一回野放しにするというのもありかもしれないという幼稚ともいえる好奇心でこの文章を書き、公開するに至った。

1.これまでに起きた自動化の波

この点に関しては、以前の記事で書いたが、様々な産業で起きた自動化の波の歴史を見てみよう。はるか昔、人間は自分の手で料理をしていた。しかし機械化が進む、そしてフォーディズムといった大量生産大量消費の社会が形作られていくにつれて、効率化、合理化の波が社会を襲う。西洋では、工業はかつて、ギルドという組織を組んでいる職人の手によって行われていた。それが解体され、今では工場を運営する会社によって合理化されてしまった。自動化はあらゆる産業で起きており、資本主義の宿命であるといえよう。

2.考えること、知ることはそれだけで価値だ

話は変わるが、私は趣味でクラフトをよくやる。割りばしと、つまようじ、竹串などの原始的で激安の素材を使って、何か日常を豊かにしてくれるものを作るのだ。私は本当にクラフトが好きで、何を作るかという構想を練り、(その過程で私が得てきた経験や知識などの様々な情報にアクセスし、統合する。)どうやったら整合性のとれた作品になるかを考え、それを実際に手を動かして作り、作った作品は誰かにあげたり、いらないと思われそうな代物は、自分の机の上に置いておく。そしてそれを眺める。この過程において私はこのクラフトという趣味を楽しむ。この(私からすれば)完ぺきな趣味は、何が楽しいのかといえば、畢竟、自分の頭を使って何かを作り上げるという過程である。正確に言えば、私の頭の中にある「感動」というファイルに入っている情報を統合し、そうした感動を頭の中で再現し、その感動をもう一度味わいながら、新たなものを作り上げるという過程にこそ、喜びがあると信じているからだ。そしてできた作品には、ある種の興奮を覚え、恍惚を覚える。

もう一つ、私はバドミントンが大好きで、よく動画を見ては、自分でそれを再現しようとする。これもそのうちAIに聞けば最適な戦略をこたえてくれるようになるに違いない。しかし私は、「私の頭の中にある「感動」というファイルに入っている情報を統合し、そうした感動を頭の中で再現し、その感動をもう一度味わいながら、新たなものを作り上げるという過程」を楽しみたいがために、そうはしないだろう。それを含めて楽しみの一種である。

こうしたことはクラフトに限ったことではない。頭の中の情報を統合し、再構築して出力するという過程が伴うすべてのことにおいて喜びが伴うことは言うまでもない。これは、知的スポーツ(ボードゲームや囲碁将棋)でも、ゲームでも、料理でも、学問的な新たな発見をするときも同じプロセスを踏んでいる。もしかしたら女の子をデートに誘うのも、同じような行程をたどるのかもしれない。そしてそれは私たち(あるいはもしかしたら私だけかもしれないが、皆そうであると願っている)に喜びを与え、生きている実感を与え、意味を与える。

人間から喜びを奪うことはできない。結局、こうしたAIによる「思考の代替」も人間から喜びを奪うことはできないのである。他の産業で自動化が進んだ今も、原始的回帰の思想が一部残っているのと同じで、情報産業で自動化が進んだとしても、人間から喜びを奪うことはできない。

3.求める喜びの総量が変わらないとすれば、、、

ここからは完全に私の個人的な予測である。人間が喜びを求めるということは承知の事実である。人間は喜びのために思考し、ある種の思考プロセスをたどる。これはドーパミンとも関連づけることができそうだが、今回の記事ではそこまでは踏み込まない。人間はこうした喜びを求める。そしてきっと、一人の完全に同じような、遺伝子的にも同じようなのうをもった人間がいるとして、人生の中で喜びを求める総量が一定であると仮定しよう。その喜び一単位当たりいできる人間の思考量は同じであるが、AIという補助的思考装置によって、はるかに情報量の多い思考をすることができるようになる。つまり、より高度な思考ができるようになる。こうすればより大きな成果を生み出すことができる。つまりAIによる自動化は人間にとってかわられる(これは失業するとかの話ではない。)ということではなく、人間が求める喜びは変わらないのだから、その人間の思考によって得られる成果の完成度が跳ね上がるということである。つまり我々思考によって喜びを得る人間にとっては朗報である。

4.「人が作った」証明

ここまで時代が進化してAIが作ったものか人間が作ったものかの判別がつかなくなってくると、人間が作ったことを証明する何かが重要になってくることは間違いない。「これは人間か作っていそう」と思わせる何かが重要であるに違いない。それはある意味「人間だけが使う言語、サイン」がより大きな意味を持つようになる。人間らしい文章、人間らしい作品、こうしたことをAIが学習する前に、我々が常にAIより先に進んだところで人間らしさを獲得しておく必要がある。そういう意味で、我々は論理的思考よりも、人間性を磨くべきであるのだろうか。これに関しては議論の余地がありそうだ。私の昔の記事にもそうしたことを一回議論したものがある。よかった見てほしい。

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