1. 大量消費は現代社会の宿命
現代とは、大量消費の社会である。
街を歩けば、目に映るほとんどすべてのものに値札をつけることができるだろう。値段のつけられないものは、青空や雲くらいのものだ。
我々はこの社会に接続されている限り、「お金を使って何かを消費する」ことから逃れることはできない。社会と接続を断つ――山にこもって自給自足でもしない限り――それはほとんど不可能だ。
とはいえ、「お金がなくても幸せだ」と語る人もいる。
なぜだろうか?
それはきっと、「社会が提供する欲望や快楽を断ち切り、それらに頼らずに満たされる術を知っている」からだと私は考えている。
そんな生き方が本当に可能なのだろうか?
正直、私はそんな人を見たことがない。
それでも私は最近、ひとつの「答えに近い考え方」を見つけたような気がする。
2. 「ミニマリスト」と老荘思想
お金がなくても満ち足りている人――たとえば「ミニマリスト」と呼ばれる人々。
彼らの思想の源流には、「老荘思想」があるのではないか、と私は思っている。
老荘思想とは、古代中国の思想家・老子と荘子の考え方をまとめた東洋哲学のひとつである。
私は彼らの書を読むたびに、大量消費社会の外にある「もうひとつの幸せの形」に触れているような気がしてならない。
老子や荘子は、世俗の楽しみに身を投じることよりも、自然との調和、静けさ、無為(なにもしないこと)を重んじた。
それは現代でいうところの「高価な趣味」や「娯楽」、たとえばブランド品や飲み会、SNS、推し活、旅行、買い物――そうした「お金を通じて得る快楽」から距離を取るという姿勢に近い。
老荘思想に倣うなら、我々が楽しみとすべきは、そうした「金のかかる遊び」ではない。
むしろ「金を使わずに深く満ち足りることのできる心」を育てていくべきなのだ。
それこそが、貨幣経済から少し距離をとる第一歩であるように思う。
3. しかし現実は甘くない
だが、現実はそう簡単ではない。
我々の感覚は、社会の強い刺激に日々さらされている。
目を、耳を、鼻を、口を、皮膚を、絶えず刺激してくる商品、広告、音楽、SNS、コンテンツ――それらが、「わかりやすい快楽」として我々を包み込んでいる。
本来、美しさはどこにでもあるはずだ。
だが我々は、それを見出す目を育てる機会を社会から奪われてしまっている。
代わりに与えられるのは、「すぐにわかる快楽」ばかりだ。
それを享受するために、我々は労働し、お金を払い、疲れ果てていく。
だからこそ今、必要なのは、「金のかからない喜び」に目を開くことだ。
たとえば、風の音。雨の匂い。雲のかたち。誰かの笑顔。
それらはすべて「無料」でありながら、深い満足をもたらしてくれる。
そしてそれは、商品から得られる一時の快楽をはるかに超えることもある。
4. ある科学者の詩
最後に、物理学者・寺田寅彦の詩を紹介したい。
日常生活の世界と詩歌の世界の境界は、ただ一枚のガラス板で仕切られている。
このガラスは、初めから曇っていることもある。
生活の世界のちりによごれて曇っていることもある。
二つの世界の間の通路としては、通例、ただ小さな狭い穴が一つ明いているだけである。
しかし、始終ふたつの世界に出入していると、この穴はだんだん大きくなる。
しかしまた、この穴は、しばらく出入しないでいると、自然にだんだん狭くなって来る。
ある人は、初めからこの穴の存在を知らないか、また知っていても別にそれを捜そうともし ない。
それは、ガラスが曇っていて、反対の側が見えないためか、あるいは……あまりに忙しいために。
穴を見つけても通れない人もある。
それは、あまりからだが肥ふとり過ぎているために……。
しかし、そんな人でも、病気をしたり、貧乏したりしてやせたために、通り抜けられるようになることはある。
まれに、きわめてまれに、天の焔ほのおを取って来てこの境界のガラス板をすっかり熔とかしてしまう人がある。
寺田寅彦「柿の種」青空文庫
この詩を読んで、あなたが何かを感じてくれたなら、それだけでもう十分だ。
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