「無知を学問する時代へ――“無知学”が問いかける知のかたち」

人文・社会

はじめに:無知は「学ぶ」対象になり得るのか?

「知識」は、いつの時代も価値あるものとされてきた。教育、科学、情報社会——それらはすべて「知ること」を前提に成り立っている。では逆に、「知らないこと」つまり「無知」はどうか。
無知は、克服すべきもの、恥ずべきもの、あるいは無価値なものとして長らく扱われてきた。

しかし近年、この「無知」そのものを主題とする学問分野が注目されている。
それが「無知学(Ignorance Studies)」である。これは、無知を単なる欠如ではなく、社会的・政治的・文化的に意味をもつ現象として捉える新たな知的領域である。


無知学とは何か?

無知学(Ignorance Studies)は、主に2000年代以降に発展してきた学際的研究分野である。起源は科学史やSTS(Science and Technology Studies)、批判理論などにあり、「無知の構造や役割」に光を当てようとする。

無知学が前提とするのは、以下のような問題意識である。

  • 無知は偶然ではなく、しばしば意図的に生み出され、維持される
  • 無知には複数の形態があり、それぞれに異なる機能や影響がある
  • 無知は、知識と同じくらい社会に力を持つ

この視点により、単に「何を知っていないか」を問うのではなく、「なぜそれを知らないのか」「誰が何を知らないようにしているのか」という問いが重要となる。


無知の3つのタイプ

無知学では、無知は一枚岩のものではなく、いくつかの類型に分類できるとされる。代表的なものを以下に紹介する。

  1. 単純な無知(Simple ignorance)
     まだ知られていない、あるいはまだ学んでいない情報。これは教育や研究によって比較的容易に克服可能。
  2. 複雑な無知(Complex ignorance)
     情報が膨大・相互依存的であるため、完全な理解が困難な無知。科学技術の発展によって逆に可視化される無知のことも含む。
  3. 戦略的・制度的無知(Strategic or constructed ignorance)
     ある集団・制度・権力が、自らの利益のために意図的に作り出した無知。たとえば企業が健康被害の情報を隠す、国家が歴史を一部編集するなど。

この3つの分類は、私たちが「無知」と聞いて即座に思い浮かべるものよりも、遥かに深く複雑な構造を持っている。


なぜ今、「無知学」が重要なのか?

無知学が21世紀において急速に注目されている背景には、情報社会とポスト真実(post-truth)の時代という現実がある。

現代では、情報はかつてないほど流通している。しかし、それと同時に「知らないこと」「知ろうとしないこと」「誤情報」も急増している。
情報過多による判断停止、フェイクニュースの拡散、陰謀論の台頭など、これらはすべて「無知」が特定の形で作動している例である。

また、環境問題や医療、政治政策などでも、重要な事実が意図的に曖昧にされたり、見過ごされたりするケースが多い。その背景には、制度的な無知の再生産がある。

無知学は、こうした現象をただの「失敗」や「誤解」として処理せず、それらの構造的背景や社会的機能に注目する。
無知をめぐる問題は、決して知識不足の問題にとどまらず、権力、倫理、教育、そして自由の問題として捉え直されているのだ。


無知を「知る」ことの意義

無知を学ぶという行為は、自己批判的な知の態度を生む。
「自分が何を知らないか」を認識することは、謙虚さの原点であり、対話と学びのスタート地点となる。

また、無知学は単なる知識の補填ではなく、「知の境界線」を理解する試みでもある。どこまでが知識で、どこからが無知なのか。その境界を見極めることで、私たちはより深く世界を理解できる。


おわりに:無知を怖れず、問い続ける姿勢を

無知学は、知識偏重の時代に対する一つのカウンターとして生まれた。
私たちが「知らないこと」をどう扱うかは、個人の成長だけでなく、社会全体の在り方を左右する。

無知を「排除すべき敵」としてではなく、「問いの出発点」として捉える。そんな知的姿勢が、今まさに求められているのかもしれない。

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