魂なき創造――AIは芸術を超えられるか?

AI

1.AIと人間の決定的な違い

近年、「アーティストがAIに取って代わられる」という議論が盛んにされている。しかし、私個人としては、そんなことはありえないと考えている。

私が芸術作品に触れるとき、単にその作品自体を見るだけでなく、必ず「そのアーティストの人生」も同時に見ることにしている。なぜなら、作品とは、その人の人生の文脈の中で生まれたものであり、どのような体験や思索の果てにその作品が生まれたのか、そこまで含めて芸術であると考えているからだ。
作品には、創作者自身を動かした何かが必ず存在する。つまり、作品とは単なる表現ではなく、それを生み出さざるを得なかった人生の軌跡の結晶である。

AIもまた、人間と同じく、膨大なデータを取り込み、そこから何かを再構成して作品を生み出す。しかし決定的に異なるのは、人間は「生きている」ということだ。人間は、たとえば帰り道にふと見上げた夕焼けに感じた言葉にならない想い、誰かに裏切られたときの孤独、あるいは読書や瞑想を通じて得た哲学的洞察――そうした感情や経験の総体から作品を創る。情報処理ではなく、人生そのものが創作に影響を与える。

ゆえに、AIがいくら精巧な模倣を行えても、「深み」を持った作品を生み出すことはできない。なぜなら、深みとは単なる情報量の多寡ではなく、「生の厚み」から生じるものだからである。

2.「シュミラークル」と芸術

ここで思い出されるのが、社会学における「シミュラークル(Simulacre)」という概念だ。たとえば、アニメ1が現実をもとに創られ、アニメ2がアニメ1を参考にして創られたとする。するとアニメ2は、表面的には新しいが、実は現実から一段階遠ざかっていることになる。
AIの創作は、まさにこの「シミュラークル」の構造にある。人間の作品をデータとして取り込み、それを再編成するというプロセスは、現実の経験からさらに遠ざかる方向へ進んでいる。

一方、人間の芸術家の作品は、「オリジナル性が低い」ということができるかもしれない。だがそれは、逆に言えば「現実との距離が近い」ということであり、むしろ私はそうした作品にこそ価値を感じる。
真理とは、遠くの抽象ではなく、日常の中にこそ潜んでいる。私は、現実に根ざした、人生から紡がれた作品の中にこそ、それを見出したいと願っている。

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